人が真に愛しうるのは「実在」しているものだけだという事実は残る

「わが人生処方」というくらいだから、健一さんの人生訓のようなものだ。それでもその種の本にあるように明快で歯切れ良く、斯くあるべしというようなものでなくて、例によってうだうだだらだらああだこうだと続く、だからちょっと切れが悪いなぁといったんは本を閉じてしまったのだけれど、ここのところ澱のように溜まりつつある、いやになってしまうなぁということが少しづつ少しづつ小さくなっているのに気がついた。えっ、これは「わが人生処方」のせいなのかなと気がつくのに少し時間がかかったほど、健一さんというのは、このようにしなさいなんて言わない、好きなようにすればいいじゃない、というのだけれど、それでも好きなようにすればいいじゃないの背景には、深い思いが潜んでいて、やっぱりいい本なのだった。で、ここで引用する言葉なども、よく理解できたという訳ではないけれど、いつかわかる日が来るに違いなくて、やっぱりいいよなぁ健一さんと思い、だから写経のようになってしまうのだった。

耳を澄ますと、自分の体が動いているのが聞こえるものであって、それを聞ゐているのが、幸福な状態にあることなのだと思ふのである。p.24

無意味に生きてゐること以外に生きていることの意味はない。例へば、飛行機が鳥に劣るのは飛行機には人間を運ぶためのものといふ有意義な目的があるからで、そんな下らない事情を離れて眺める時に初めて飛行機も新鮮に目に映じる。又実際、飛行機の身になって見れば、時速が幾らで積載量がどうといふようなことで飛んでゐると思われては迷惑に違ひない。p.82

我々が本を読むのはどうもかうして息を整へるためにであるといふ気がする。p.183

本はただ読めば解り、これはその本と付き合って一人の人間に出会った思ひをするかどうかを知るのに手間は掛からないといふことなのである。p.197

結局はなだらかといふことに帰するだろうか。p.201

さういふ親みがある言葉は自分で書く他ないのかと思ふこともある。p.202

さうして見ると我々は若くなるためにも年をとる他ないのである。p.209

何か書く気を起こすといふのもその辺から始まって、凡てが終わるのを自分の言葉を通して見たいのが我々をさういふ仕事に追ひやる。それならば書くのも年をとる方法で、我々が年を取った時に書けるようになる。凡てが終わるといふのは一切のものがその場所を得てその通りのものになることである。p.216

夕方といふのは寂しいんぢゃなくて豊かなもんなんですね。それが来るまでの一日の光が
夕方の光に籠ってゐて朝も昼もあった後の夕方なんだ。我々が年取るのが豊かな思ひをすることなのと同じなんですよ。もう若い時のもやもやも中年のごたごたもなくてそこから得たものは併し皆ある。それでしまひにその光が消えても文句言うことないぢゃないですか。そのことだけでも、命にしがみついてゐる必要がないだけでも爽やかなもんだ。p.260

かくして始まった「人生の長い黄昏」の中で、人は何をするか。何もしなくてよいというのが吉田の答えである。p.264

何も「余生」は人に無為を強いるわけではない。何事かを他から強いられるということ、ないし自分で自分に強いるということ自体が全く消滅するのが、「余生」なのだから。ただ単に喫茶を楽しんで日々を送りたければそれはそれで一向構わないが、是が非でもそうした優雅な閑居に甘んじなければならないという道理もない。またふたたび仕事をしたくなれば単にすればいいのであり、義務感からでも功名心からでもなく今や自由で自発的な精神の働きによってのみ成ったそうした仕事こそ、むしろ「本もの」なのである。p.267

いずれにせよ、人が真に愛しうるのは「実在」しているものだけだという事実は残る。・・・・人は恋人の瞳や飼っている犬のしぐさや川面に移ろう光を愛するように本を愛しうるし、また愛すべきだという簡明な真実である。p.271

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