彼はふたたび未来を植えていた

  • オーウェルの薔薇」レベッカ・ソルニット著を読んだ。最近またオーウェルの名を聞くことが多くなった。権威主義体制を厳しく糾弾したオーウェルだけれどその思想の背後には<薔薇>があって、「大地の表面」の細々とした喜びを愛でる日常があった、そんなことが書いてあった。庭とは「未来を植える場所」だなんて、少なくとも「未来への希望を植える場所」だなんて、カッコいいなぁオーウェルさん。

    戦争の反意語があるなら、時には庭がそれに当たるかもしれない。人びとは森や牧草地、公園、庭園の独特なたぐいの平和を見出してきた。p.5
    ガーデニングが持つような仕方で、のんびりとやるように私を仕込んでくれたものは、他に何もありません。p.58
    私は庭が生産性の論理の外部でいかに生産的であるかというのが大好きなのです。食べられるものや栄養になるものなどが私の庭でたっぷりできますが、そこは必ずしも計測する必要がないような形で「生産的」でもあるのです。p.58
    「すべてのものにパンを、そしてまた薔薇も」・・・この国に生まれるすべての子どもがひとりひとりが声を持つ政府の中で、人生の<パン> ー つまり家、シェルター、安全 ー と、人生の<薔薇> ー すなわち音楽、教育、自然、書物 ー を受け継ぐ、そういう時代の到来を促進する、牢獄がない、処刑台もない、子どもが工場で働くこともなく、少女がパンを稼ぐために街頭に出ることもない、「すべの人びとに<パン>を、そして<薔薇>も」となる暁にはp.104
    その七月に彼は大がかりな菜園に種を蒔いた。その年のもっと後に花を植えた。ルピナス、パンジー、プリムローズ、チューリップなどだ。もっとあとで、再び薔薇を植えている。七月には林檎の木を六本、さらに二本のモレロチェリーを含む他の果樹を六本注文した。彼はふたたび未来を植えていた。あるいは、少なくとも、未来への希望を植えていたのだ。p.297
    冷徹な目で、権威主義体制の実態を暴いた政治作家としての重要性は疑いないとしても、それを彼の全てとみなしてしまうのはどうだろう、そこで抜け落ちてしまうのは、日常生活の(彼が好んだ言い方をすれば。「大地の表面」の)細々とした事象に喜びを覚え、それを表明するオーウェルの姿である。p.338

石田さんは町を書く

石田千さんは町を書く。ぼつぼつと読み続けたい。

 

2023年3月18日

石田さんは町を書く。どっちかと言うとしょぼっとした町を書く。あんまりしょぼっとしたくないけれど石田さんの本が好き。「休日のちいさな本」という章で、石田さんの好きなちいさな本が挙げられていた。ちょっと意外にもずっと疎遠だった永井宏さんの本が挙がっていて、そうだもういちど永井さんに出会い直そうと思った。

「本は、木箱にいれておいて、あふれてくるとかたづける。くりかえしかたづけても、箱の中に残す本があって、並べてみるとちいさな本が多いのだった。本を読むのは休みの日で、出かけるときにも一冊連れて行く。そんなふうにして、ちいさな本が増えた。なんど読み返しても、手もとに残るちいさな本が増えていくのは、楽しい」

①「久保田万太郎句集こでまり抄」 ふらんす堂

②「SUNSHINE+CLOUD18 」 永井宏 サンシャイン プラス クラウド 

③「猫」 有馬頼義ほか 中央公論社

④「春のてまり」福原麟太郎 三月書房

⑤「ぜんまい屋の葉書」金田理恵 筑摩書房

⑥「河流小佳 錦誘河川」王鉄柱

「月と菓子パン」石田千著 P.167

 

古書店の店主リベロと

この古書店主、いいね。

 

2023318

映画「丘の上の本屋さん」を見た。古書店の店主リベロと移民の少年エシエンとの本を通しての交流が静かに描かれる。店主が少年に最後に送った本のタイトルが意表をついた。このストレートさがずっと忘れていた真っ直ぐにものを言っていいのだということを思い出させてくれた。エンドロールで流れるイタリアンポップスがずっと抑えていた感情を爆発させた。古書店の抑制の効いた調度が素敵だ。人生の終わり方を描いた映画でもある。

https://www.youtube.com/watch?v=Nnr62moQH0U

 

歩いて耕して食べる歩いて耕して食べる

庭というより、道をつくりたい、畑をつくりたい。

2018年3月16日
おばあちゃんが大切にしておられた庭、木々は大きく育ち長い時間をかけて集められた草花たちは元気に育っていた。どうすればいいかわからなかった、だからお庭のまわりを一周する道を作ろうと思った。道ができる、お家の人たちがそこを歩く、まいにち歩く、そうこうしているうちに、今まで見えなかった風景が見えてくる。次に菜園を作った。歩いて耕して食べる歩いて耕して食べる、そんな庭ができればいいなと思った。あとはまたそれから考えればいい。

 

小さくていいものを求めることの方が

もうあまり西村伊作の名前は聞かなくなってしまった。かっこいい人だったなぁ。

2020年3月15日
コロナ・ウィルスの影響というのか、余波の余波を受けて、少しふさぎがちな日が続いていたけれど久しぶりに現場に出た。季節の木々と朝の光と職人たちと、やっぱり現場はいいなぁと思った。それも小さな仕事。西村伊作は「小さくて善いもの」を愛した。それを知った時、そうだそうに違いないと思った。
「葬儀のとき伊作は「小さくていいもの」というスピーチをした。・・・この葬儀は小さなものだけれど、皆が心を込めて集まってくれて、とてもよいものだった。われわれは多くを望みがちだが、小さくていいものを求めることの方が大切である。」・・・・という趣旨のものだった」きれいな風貌 西村伊作伝 黒川創著 p.170

 

何かそういう衰弱していく時のゆったりしたというか

「雨の日はソファで散歩」10年以上も本箱の隅に眠っていて最近ようやく掘り出されて、まさに今読まれるべき時に出てきてくれた。そう言えば最近は隠居暮らしという言葉は聞かなくなって定年退職なんていう身も蓋もない言葉になったけれど、やっぱり隠居でなきゃだ。ところでこの中で白眉は谷崎潤一郎さんの「まだ人々が《愚》という尊い徳を持っていた」という言葉。誰も彼もが賢くなってしまって、そして失ったのが徳だった。 
テレビを家の中に置かず、名刺を持たないとどういうことになるか。テレビ番組が話題になる大抵の席で口を聞かなくて済むし、人に会っても名刺を渡さないからすぐに忘れてもらえる。この情報過多時代にその人の身の回りだけがひっそり閑になり、都会の真ん中に住んでいて、世捨て人になれる。深山幽谷にいるから隠者ではない。身の回りの一つ二つのものを捨てれば、かなりの程度世を捨てられるし、世から捨てられるのである。池内紀さんの近著「遊園地の木馬」を覗くと、それを実践している池内さんがいて、感服した。p.42 
子供の目で見た素白の品川宿は、谷崎潤一郎のいわゆる「まだ人々が《愚》という尊い徳を持っていた」時代の美しい絵巻物の世界である。p.109 
隠居暮らしというのは要するに、ショーペンハウエルの「意思と表象としての世界」ふうに言えば、意志がぜんぜん無いわけです。現実とどう絡むとか、これで出世しようとか銭儲けしようとか、そんな人間の欲望の意志というものをまったく欠いた状態で、つまり表象の上だけで生きている。イメージだけで生きているわけですね。p.206 
それに、話しているのは思い出だ。現場の報告じゃなくて、全部意思を抜き取って、表彰だけにして書いているプルースト的な世界だから、読んでいて、すごく色が綺麗だなとか、音がいいなとかいう、印象派の絵を見たり、ドビュッシーの音楽を聴いているみたいな、われわれの世界で言えば流しの新内か何かを雨垂れの音と一緒に聴いているみたいな、


、駘蕩とした世界ですよ。p.219