ものと暮らし、ものと生活

「民藝のインティマシー」鞍田崇著を読んだ。まだまだ具体的な姿を現しているわけではないけれど、民藝が柳さんがこんなふうに今も生きつづけているのがうれしい。
ハイデガーは、先ほどふれた「建てる・住まう・考える」という論考の中でこんなふうに言っています。死すべき者は住まうことをまず学ばねばならない。住まうことに固有の危機、それは人間の故郷の喪失ということである。p.134
なによりもハイデガーも日常生活の中での「道具」との関わりを論じました。たとえば、ハイデガーは「住まうことはいつでもすでにものの傍らにとどまることである」といい、柳は「ものへの愛は日々の暮らしに根を下ろさねばならない」という。ものと暮らし、ものと生活、というセットの中で自らの思索を進めて行こうとしたところも似ています。p.136
民藝が持っている現代性こそが、住まうことの学び直し的な要素です。p.138
「人間らしさ」とは何だろうか。ぼくは、あらゆる行動の原点に、自分自身の頭で下した判断を据えることだと考えたい。p.152

 

小さな町の小さな本屋さん

ようやく最終ページに辿り着いた。クリストファー・ミルン。「自分の植えた木々の中でいろいろなことがしたい」そんな夢を見る人。
わたしの心はいつも、大きく遠いものを対象にした小さい近いものに傾いてしまう、だから私は谷間の奥に住んでいる。小さな町で小さな本屋をやっている。思いきって遠くへ出かけることはめったにない。p.13
「何よりも肝心なのは、自己に忠実であれと言うことだ。」なにより肝心なのはこれだ。調和のための調和よりも。自分の足に合わない他人の靴をむりやりはいて体裁をつくることよりも、真心から信じていない時に「私は信じています」と言うことよりも。自分が発見した道について、私はただ、これが私にふさわしい道だと言っておこう。p.342
私たちはここに座って夢を見よう。私は自分の植えた木々の中でいろいろなことをする。やらなければならないことはたくさんある。だが急がなくてもいい。別の日にまたできる。小さく、のんびり、というのが私たちの住む世界。しあわせなことに私たちがそれを気に入っている理由もここにある。p.355

 

いま会うべき人とは必ず

酔い覚ましにスターバックスでお茶を飲んでいたら、あれはひょっとして柄谷行人さん?って思ったからお声がけしようかなと散々迷ったあげく勇気を振り絞ってお声がけしたら、果たしてそうであった。年とって思うことは、どんなに高名な方であっても、物おじせずにお声がけすればきっと真摯に応えて下さるということ。この街にはいろんな方が住んでおられるのだなあ。それにしても不思議なことは、いま会うべき人とは必ず出会えるということ、人生うまくできているよね。それにしても柄谷さん、いいお顔されているなあ。勉強すればあんなにいいお顔になれるのだなぁと思った。

 

藤原さんいいな

「植物考」藤原辰史著を読んだ。今の僕たちを取り巻く世界をこんなに的確に簡潔に言葉にしてくれた人がこれまでいただろうか。「私はそれを植物性からの人間の大きな乖離、あるいは、人間のうちなる植物性の弱体化と呼びたい」藤原さんいいな、もっともっと読みますから。石内都さんの表紙のバラの写真も素晴らしい。
マンクーゾによれば、植物は知性を、つまり、問題を解決する能力を持つという。それは問題から逃げないで、問題を解決する能力であった。根を持ち、環境に浸ることが本質である植物に、そもそも逃走という選択肢はあり得ないからだ。p.76
かつて、ゲーテもルソーもノヴァーリスも植物をまるで人間の魂や共和性を論じるように論じていた時代があったことを、ある種のノスタルジーとともに振り返っている自分に気づいた。あの知のあり方に、たとえそれに戻ることが著しく困難だとわかっているとはいえ、私は憧れを禁じ得ない。先人たちの植物をめぐる思考に触れ、歴史や経済を学ぶ人間が、植物について関心を持たない時代こそが、異常な時代なのかもしれないと感じることも少なくなかった。p.214
つまり、植物の美しさの根源は理解できるものではない。「意味のない美しさ」、無用の美しさだからこそ、その美しさを「経験」するしかない、というのがビュルガの見立てである。p.218
私たちは、根を生やしてそこから水とミネラルを吸い取ったり、光合成をして糖を生産したり、可憐な花を咲かせたりすることよりも、チーターのように早く進み、鳥のように空高くとび、モグラのように地下に穴を掘り、イルカのように海を泳ぐことに憧れ、実際にそのように産業文明を発達させてきた。地球に降り注ぐ太陽の恵みを存分に利用し、土壌の湿度と団粒構造を見極め、美しいものをもっと時間をかけて育て上げるような世界のあり方を、どこかで放棄してきた。人はそれを、社会の産業化というだろうし、環境問題の出現ともいうだろう。私はそれを植物性からの人間の大きな乖離、あるいは、人間のうちなる植物性の弱体化と呼びたい。p.226

 

かつて馳せた想いに

学生時代、同じ花卉・造園学教室に学んだ先輩たちとの昼飲みの会が横浜であった。個人情報保護法施行やコロナ禍以降、このような集まりを持つことはすっかり少なくなってしまっていた。かつて僕たちが何を想い何を目指して来たかを確認できる貴重な時間を共に過ごすことができた。年齢で言えば70代半ばから80代前半までのすっかりおじいさん、なのに驚くほどみんなかつて想ったこと、目指していたことを忘れていないことを知って嬉しかった。かつての想いは微修正こそ必要であっても、大きな修正の必要はないことを確認できたと言ったらあまりに不遜だろうか。かつて馳せた想いに自信を持っていいのだと気づかせてくれた昼飲みの会であった。

 

彼はふたたび未来を植えていた

  • オーウェルの薔薇」レベッカ・ソルニット著を読んだ。最近またオーウェルの名を聞くことが多くなった。権威主義体制を厳しく糾弾したオーウェルだけれどその思想の背後には<薔薇>があって、「大地の表面」の細々とした喜びを愛でる日常があった、そんなことが書いてあった。庭とは「未来を植える場所」だなんて、少なくとも「未来への希望を植える場所」だなんて、カッコいいなぁオーウェルさん。

    戦争の反意語があるなら、時には庭がそれに当たるかもしれない。人びとは森や牧草地、公園、庭園の独特なたぐいの平和を見出してきた。p.5
    ガーデニングが持つような仕方で、のんびりとやるように私を仕込んでくれたものは、他に何もありません。p.58
    私は庭が生産性の論理の外部でいかに生産的であるかというのが大好きなのです。食べられるものや栄養になるものなどが私の庭でたっぷりできますが、そこは必ずしも計測する必要がないような形で「生産的」でもあるのです。p.58
    「すべてのものにパンを、そしてまた薔薇も」・・・この国に生まれるすべての子どもがひとりひとりが声を持つ政府の中で、人生の<パン> ー つまり家、シェルター、安全 ー と、人生の<薔薇> ー すなわち音楽、教育、自然、書物 ー を受け継ぐ、そういう時代の到来を促進する、牢獄がない、処刑台もない、子どもが工場で働くこともなく、少女がパンを稼ぐために街頭に出ることもない、「すべの人びとに<パン>を、そして<薔薇>も」となる暁にはp.104
    その七月に彼は大がかりな菜園に種を蒔いた。その年のもっと後に花を植えた。ルピナス、パンジー、プリムローズ、チューリップなどだ。もっとあとで、再び薔薇を植えている。七月には林檎の木を六本、さらに二本のモレロチェリーを含む他の果樹を六本注文した。彼はふたたび未来を植えていた。あるいは、少なくとも、未来への希望を植えていたのだ。p.297
    冷徹な目で、権威主義体制の実態を暴いた政治作家としての重要性は疑いないとしても、それを彼の全てとみなしてしまうのはどうだろう、そこで抜け落ちてしまうのは、日常生活の(彼が好んだ言い方をすれば。「大地の表面」の)細々とした事象に喜びを覚え、それを表明するオーウェルの姿である。p.338

石田さんは町を書く

石田千さんは町を書く。ぼつぼつと読み続けたい。

 

2023年3月18日

石田さんは町を書く。どっちかと言うとしょぼっとした町を書く。あんまりしょぼっとしたくないけれど石田さんの本が好き。「休日のちいさな本」という章で、石田さんの好きなちいさな本が挙げられていた。ちょっと意外にもずっと疎遠だった永井宏さんの本が挙がっていて、そうだもういちど永井さんに出会い直そうと思った。

「本は、木箱にいれておいて、あふれてくるとかたづける。くりかえしかたづけても、箱の中に残す本があって、並べてみるとちいさな本が多いのだった。本を読むのは休みの日で、出かけるときにも一冊連れて行く。そんなふうにして、ちいさな本が増えた。なんど読み返しても、手もとに残るちいさな本が増えていくのは、楽しい」

①「久保田万太郎句集こでまり抄」 ふらんす堂

②「SUNSHINE+CLOUD18 」 永井宏 サンシャイン プラス クラウド 

③「猫」 有馬頼義ほか 中央公論社

④「春のてまり」福原麟太郎 三月書房

⑤「ぜんまい屋の葉書」金田理恵 筑摩書房

⑥「河流小佳 錦誘河川」王鉄柱

「月と菓子パン」石田千著 P.167