もっともっと自由でいいんだよなんて

植物は自由でいいなと思う。足がないから歩けないのにそれでも自由なのだからいいなと思う。

2016年6月20日
壁面緑化とか屋上緑化と言うとなんだか建築に遠慮しているようでつまらないなぁと思うのだけれど、遠慮なんかしなくていいんだよ、もっともっと自由でいいんだよなんて、そんなことはなかなか大きな声では言えないのだけれど、でも西荻窪にはこんな自由な植物たちがぽつぽついて、だからこの町が好きだ。

 

新しい人生が穏やかな公園の大きな木々の下から

  • 4年が経った。そして10年が経って、20年が経って、50年が経つ。生き抜くんだよ!

    2018年6月20日
    6月17日、史が嫁いだ。梅雨空の中、時々日が射すお天気だった。新郎のお母様がてるてる坊主を作ってくださっていたのだった。それがうれしかった。お祝いにしようとこの2ヶ月ピアノの猛練習をしていた。初めて人前で華麗に弾くつもりだった。散々だった。しどろもどろだった。熊谷 守一の「へたも絵のうち」を信じているから、「へたも音楽のうち」だと思っていた。まったく違うのだった。それ以外は万事おだやかで笑いのたえない結婚式だった。普段とても父に厳しい史が、にこにこと笑っていてくれていた、これを機会にもっともっと練習しなきゃだよと。音楽を甘く見ていた、そのことを嫌という程思い知った一日だった。会場の砧公園は1941年、戦時体制に備えて防空緑地として位置付けられたそんな歴史を持っている。若い二人の新しい人生が穏やかな公園の大きな木々の下から始まったことがとてもうれしかった。
    https://www.youtube.com/watch?v=FsZMyTGmNeI






成り行きに任せるしかないのだけれど

なにごとも結局は成り行きに任せるということなのだ。

2019年6月20日
うまく着地できない仕事というのがある。それでも現場ははじまる。成り行きに任せるしかないのだけれど、でもこの成り行きというのは自然の流れに乗るということだからなかなかいい。草ぼうぼうの庭、実はこれが一番好きなのだけれど、そこから一歩進めようとするとすればどうすればいいんだろう? 残したい草を見つける、残したい草を島として残す、敷地の中にポツンポツンと草の島が残る。仮払い機ひとつでできる庭、堅い言葉で言えば選択的除草というのだけれど、楽しみな技術だ。

 

ほとんど何もしないというしごと

結局何もしないと言うことなのだなぁ。

2019年6月20日
この庭は誰が作ったの?と問われれば、虫たちや、鳥たちや風かなと答えざるをえない。で、じゃぁ僕たちのしごとはと問われれば、半日ぐらい、じーっとぼーっと眺めているほかしようがない。ほとんど何もしないというしごと。そろそろそんなしごとが求められているのかなぁと考えていたら、5月18日の朝日新聞日曜版の読書欄に「レンタルなんもしない人のなんもしなかった話」という本のことが載っていた。その時はなに言ってんだかと思っていたけれど、Hさんの庭に半日いて、そうかこういうことだったのかと思った。

 

なんだか訳もなくすばらしい

  • 建築家というより探検家というより、何かなぁ、とにかく建築家らしくない、だからその師、建築家らしい建築家コルビュジェとは異なる。でもどちらも蝶ネクタイが似合ってる、そこのところが好きだ。吉阪さんを見ていると分かってくる。建築家は建築家らしくなってはいけないということ、もっともっと大きな存在なのだから。ひょろっとしたやぎ髭のおじさんでいい。吉阪隆正作品を多く見ている訳ではないけれど、お茶の水に行くといつも見たくなるアテネフランセと会場で見た吉阪自邸。どちらもぼつぼつとした装飾が素晴らしい。なんだか訳もなくすばらしい。





ハイボールとポテサラとねぎまが必須のアイテム

一応金曜日だから、真っ直ぐ家に帰るのはよくないような気がする。コロナ禍で疲弊した赤提灯を元気づけないとだし、ご近所のおじさんおばさんと会うかもしれないし、これこそがコミュニティの原点なのだし、その為にはハイボールとポテサラとねぎまが必須のアイテムなのだ。