さぁ今年も「愉快に生きようではないか」

今日は仕事をと思ったけれど、いやいやもう1日と家にいる、本棚の整理をしている、処分する本を選び直し、最後にもう一度傍線を引いたところを読み直している、そんなことをしているとどの本も全く手放せなくなってしまう。長田弘著「すべてきみに宛てた手紙」にはこんなことが書いてある。
「はじまりというのは、何かをはじめること。そう考えるのがほんとうは順序なのかもしれません。しかし、実際は違うと思うのです。はじまりというのは、何かをはじめるということよりも、つねに何かをやめるということが、何かのはじまりだと思うからです。」p.9
「読書をするとは、偉そうな物言いをもとめることでも、大それた定理をさがすことでもなく、わたしをして一人の「私」たらしめるものを再認識して、小さい理想をじぶんで更新するということです。どんな時代にも、ひとが本にたずねてきたものは、決して過剰なものではなかったはずです。わずかなもの。一冊の本のおおきさほどの、小さな理想です。」p.33
「記憶は過去のものではない。それはすでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、自分の現在の土壌となってきたものは、記憶だ。記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけてそだてることができなければ、ことばはなかなか実らない。じぶんの記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生と呼ばれるものだと思う。」p.61
「教育というとき思い合わせるのは、教育の最終の目的は「愉快に生きようではないか」ということだとした、十八世紀イギリスの傑作、ボズウェルの「サミュエル・ジョンソン伝」の印象的な一節です。私は「結局のところ、この世もそう悪くない」と述べたヴォルテールの結論の正しさを自分でなっとくするようになった。しかし我々は余りに深く考えすぎてもいけない。何となれば、「無知が至福であるならば、思慮あることは愚行となる」というグレーの語句は、多くの点で詩的に正しいという以上の真理なのである。」p.106
「現代イタリアの作曲家ルイジ・ノーノが愛したトレドの修道院に刻まれている言葉「・・・さまよい歩くものよ、道はなし・・・されど歩まねばならぬ」p.112
え~~、ちっとも本棚の整理が進まない、さぁ今年も「愉快に生きようではないか」