考えろ考え続けろっ!て教えてくれる風景なんて

  • 昨日がクライマックスかなと思っていたら今日はもっともっとあったかくて、万朶の桜で、またついふらふら出かけてしまった、今日はまたひとり花見に戻って、ビールも飲まずにぐるぐるぐるぐる富士見通りを歩きつつ考えつつ考えつつ歩きつつ、考えることといったら決まってる、この街はどうなってしまうんだろう?どうするつもりだろう?ということ、この国の風景の有り様に絶望していた時に救ってくれたのはこの多摩ニュータウンという街だった。その街が今おかしくなっている。国も地方も地域もみんなみんなおかしくなっている。だからどうすればいいの?そんな埒もないことを考えては歩いてた。ただひとつ言えること、この街が好きだということ、ニュータウン計画は失敗ではなかったということ、決して逃げ出しはしないということ。考えろ考え続けろっ!て教えてくれる風景なんてそうどこにでもないと思ってる。こんな風景大事にしなきゃだ。







そんな当たり前の暮らしができる場所

今年のお花見は不発に終わるかなと思っていたけれど、今日はようやく満開で、お天気もまづまづで久しぶりにこの街はいいな、楽しいなと思ったのだった。みんなで仲良く穏やかにお酒を飲んでお弁当を食べて。改めてお花見を発明した八代将軍吉宗は偉いなぁと思った。だってこんなに戦争や虐殺が多発している時代においてもう一度平和って、穏やかな生活ってなんだろうって考えさせてくれる風景だもの。なんだか多摩市の街づくり施策がおかしくなっている今日この頃において、街が最終的に目指すべきものは、ちっとも難しいことではなくて、市民が平和で穏やかで仲良く暮らせる環境を作ることだから。街開きから半世紀近くが経ってようやく、旧公団が目指したことはそんな当たり前の暮らしができる場所を作ることだったんだなぁと思った。

 

経験は私個人のものであり、もはや私の

「建築家よりも大工。アーキテクチャーよりもカーペントリー」ヤンキーの哲学者 千葉雅也さんがそんなこと言っていた。

2018年4月5日
職人が書いた本というと、神がかりな名人が書いたものが多いように思う。でもなんでもそうなんだけれど普通の人のことが知りたい。そんなことを思っていたらこんな本が出た。職人が書いた本らしく装丁もさっぱりしていて気持ちがいい。それに職人というと僕たちは日本の伝統工芸の職人あるいはドイツやイギリスあたりのクラフトマンのことしか頭に浮かばない。でもこれはノルウェ-の大工さんが書いた本だ。ヨーローッパの普通の大工さんはどんなことを考えてどんな風に生活しているのだろうと読んでみた。ひたすら淡々と日々の段取りや作業の内容が書いてある。もうちょっと盛り上がればなぁと思ったけれど、ひたすら淡々とがまさに職人であり大工さんの世界なのだ。でも、読み始めて2/3くらいのところに書いてあった。



「私には自分の培った経験がある。他人から学ぶのは大切だが、経験は私個人のものであり、もはや私の人格の一部である。もし生まれ変わるなら、偉人などではなく、自分の経験を持ったまま、何度でも職人として生まれ変わりたいと思う。ただし、毎回新しい腰が欲しいものだ。」p.217

Fuckin' Yuya Uchida, don't rest in peace just Rock’nRoll!!

也哉子さんがいちばん偉いなあ!

2019年4月5日
内田裕也(享年79)Rock’n Roll葬」4月3日、青山葬儀場での長女・内田也哉子の謝辞。
私は正直、父をあまりよく知りません。わかり得ないという言葉の方が正確かもしれません。けれどそれは、ここまで共に過ごした時間の合計が、数週間にも満たないからというだけではなく、生前母が口にしたように、こんなに分かりにくくて、こんなに分かりやすい人はいない。世の中の矛盾を全て表しているのが内田裕也ということが根本にあるように思います。
私の知りうる裕也は、いつ噴火するか分からない火山であり、それと同時に溶岩の間で物ともせずに咲いた野花のように、すがすがしく無垢(むく)な存在でもありました。率直に言えば、父が息を引き取り、冷たくなり、棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、ひからびた骨と化してもなお、私の心は、涙でにじむことさえ戸惑っていました。きっと実感のない父と娘の物語が、始まりにも気付かないうちに幕を閉じたからでしょう。
けれども今日、この瞬間、目の前に広がるこの光景は、私にとっては単なるセレモニーではありません。裕也を見届けようと集まられたおひとりおひとりが持つ父との交感の真実が、目に見えぬ巨大な気配と化し、この会場を埋め尽くし、ほとばしっています。父親という概念には到底おさまりきれなかった内田裕也という人間が、叫び、交わり、かみつき、歓喜し、転び、沈黙し、また転がり続けた震動を皆さんは確かに感じとっていた。これ以上、お前は何が知りたいんだ。きっと、父はそう言うでしょう。
そして自問します。私が父から教わったことは何だったのか。それは多分、大げさに言えば、生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません。彼は破天荒で、時に手に負えない人だったけど、ズルい奴ではなかったこと。地位も名誉もないけれど、どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる。これ以上、生きる上で何を望むんだ。そう聞こえています。
母は晩年、自分は妻として名ばかりで、夫に何もしてこなかったと申し訳なさそうにつぶやくことがありました。「こんな自分に捕まっちゃったばかりに」と遠い目をして言うのです。そして、半世紀近い婚姻関係の中、おりおりに入れ替わる父の恋人たちに、あらゆる形で感謝をしてきました。私はそんなきれい事を言う母が嫌いでしたが、彼女はとんでもなく本気でした。まるで、はなから夫は自分のもの、という概念がなかったかのように。
もちろん人は生まれ持って誰のものではなく個人です。歴(れっき)とした世間の道理は承知していても、何かの縁で出会い、夫婦の取り決めを交わしただけで、互いの一切合切の責任を取り合うというのも、どこか腑(ふ)に落ちません。けれでも、真実は母がそのあり方を自由意思で選んでいたのです。そして父も、1人の女性にとらわれず心身共に自由な独立を選んだのです。
2人を取り巻く周囲に、これまで多大な迷惑をかけたことを謝罪しつつ、今更ですが、このある種のカオスを私は受け入れることにしました。まるで蜃気楼(しんきろう)のように、でも確かに存在した2人。私という2人の証がここに立ち、また2人の遺伝子は次の時代へと流転していく。この自然の摂理に包まれたカオスも、なかなかおもしろいものです。
79年という長い間、父が本当にお世話になりました。最後は、彼らしく送りたいと思います。
Fuckin' Yuya Uchida, don't rest in peace just Rock’nRoll!!