どれも掛け替えのないものなのだ

  • こうやってパンフレットの表紙だけ見ていても、その頃のことがぼんやり浮かび上がってくる、その時代は何を思い悩み、どんな風に生きていたのかなぁなどということも。映画なんていうものは、ま、見なきゃ見ないで済むものだけれど、こうやって振り返ってみると、どれも掛け替えのないものなのだ。

    2019年8月28日
    雑誌に引き続いて、映画のパンフレットが出て来た。いつも映画を見た後、映画見たしなぁ、パンフレットいるかなぁと迷うのだけれど、そして帰りの電車の中で読みながら帰ってくると、いらなかったかなと思うことが多い。でも10年も20年も30年も時間が流れると、映画のパンフレットというのが俄然輝きを増してくる。映画というのは画像だから、まぁ幻だから、時間が経てば経つほどぼんやりとしたものになってくる。で、よかったなぁ、好きだったなぁと思うのは、時として世間の評価があまりパッとしなかったのが割合多くて、後からその映画のことを反芻しようと思うと なかなか骨が折れることが多い、でもこのパンフレットというものが突然どこからかあらわれてくると、これだ好きだったのだこれだ、ということになってそれは嬉しい。今回見出されたこのイタリア映画「踊れトスカーナ」もそんなのであってようやく再会できた。それにしてもほとんど忘れていた映画でも、パンフレットの表紙を見ただけで、そのストーリーは思い出せないものの主人公の佇まいや笑顔はすっと蘇ってくる。そしてそれらの映画がぼくの中に何を残したかなんてそれは本なんかに比べてとってもぼんやりとしたものなのだけれど、どこかぼくの血と肉になっているのだなぁと思うとなんだかうれしい。わりあい映画はたくさん見てきたほうだと思うのだけれど、確実に血になったり肉になったりしているんだなぁなんて思うのは、長い人生のなかで今回が初めてだ。映画を観てきて良かったなぁと思う秋の夜であった。