そうは私は思わないと葉子さんも言っている

  • この小説が好きだったというと、なんだか恥ずかしいように感じるけれど、だから黙っているのがいいのかというと、そうは私は思わないと葉子さんも言っている。だからちゃんとこの小説が好きだったと言おうと思う。

    2019年5月27日
    「水曜の朝、午前三時」この本は脳腫瘍の告知を受けた翻訳家で詩人でもある工藤直美さんが、ニューヨークに留学中の一人娘の葉子に自分の人生を振り返って、病床で吹き込んだテープを起こしたものという体裁をとっています。
    直美さんが生きていたのはこんな時代でした。
    私はボブ・ディランを聞きながら、サルトルを読んでいました。それが、私にとっての1969年でした。目の前にあるものすら見えないふりをしているのが今の時代なら、誰もが見えないものまで見ようとしていたー恐らく、それがあの時代でした。p.37
    この本が教えてくれたのは「雅趣(グー)」ということでした。
    「直美はあちこちにアンダーラインをを引き、欄外にも様々な書き込みをしていた。アンダーラインが付されているのは、例えばディドロが書いたとされるこんな文章だ。私はフランドル絵画のほとんどすべてに才能を存在を認める。しかし、そのどこを探しても「雅趣(グー)」は見つからないのだ。」p.289
    直美さんが探し続けていたのは「雅趣(グー)」でした。そして娘葉子に伝えたかったのもそのことでした。
    「雅趣」という言葉は今ではもう聞かなくなってしまいましたが、どうも現代ではほとんど死に絶えている言葉なのかもしれません。
    舞台になる街も道具立ても背景に響く音楽も全ていいぞと思うものばかりで出来上がっている小説でしたからひどく好きになってしまいました。
    そしてこの小説の最後は、葉子のこんな言葉で締めくくられます。
    母はよく私に言っていました。後に悔いを残したくなかったら、言うべきかどうか、迷うようなことは何も言わずにおくべきだ、と。振り返ってみれば、母の言ったことはほとんど正しかったように思います。でも私は、こうも思うのです。たとえ愚かなことを口にしてしまったと嘆くような結果になったとしても、あの時ああ言っておけばよかったと悔いるよりは少しはましなのではないか、と。後悔することを恐れて口を閉ざしている人は、私の知る限り、不幸に見舞われることもない代わりに、幸運に出会うこともなかったように思います。それにまた、口にしてみて自分でも初めてそれとわかる真実もあるのです。p.242
    もう亡くなってしまった児玉清さんが彼の番組、週刊ブックレビューで、こんな小説を待っていたと言っていたのをずっと覚えていてようやく今となって読むことができました。