ただ本を読みながら生きているだけだった

「読書の日記」を読んだ。著者の阿久津隆さんは初台でfuzkueと言う本を読む店をやっている人で、こんなに厚いの読み通せるかなとおもったけれど、ぐいぐい読み進んでしまった。書評のような日記のようなビジネス書のような東京シティ・ガイドのようでもある本だ。でもこれが良かった。だって人間は本だけでは生きていけないし、ビジネスだけでもだめだし、おしゃれだけでもだめだし、それらと複雑に絡み合いながら、日々悪戦苦闘しているのだから。でもそんな悪戦苦闘する姿をさらけ出すのなんてかっこ悪いし恥ずかしいし。だからそんなことみんなあまり表には出さないのだけれど、阿久津さんは毎日とっても正直に怒ったり、泣いたり、快哉したり、自転車で疾走したりしている。そしていつも次は何を読もうかなって考えている。僕もいつも次は何を読もうかなってあぁでもない、こうでもないと迷ってる。でもなぜか阿久津さんは次はこの本だって教えてくれる。だからあまり迷うことがなくなった。それは多分、それらの本たちが日々の格闘の中から生まれてくるからだと思う。

本を味わうというのはたぶん文字通りむしゃむしゃすればいいだけの話であって、おいしさにため息をついたりすればいいだけの話であって、言語化するにしても「おいしい」くらいで十分なはずであって、食べたものの味や印象を言語化することが食べ物を味わうことの必要条件ではないのと同じように、食べたものをただただ「おいしい」と言って食べていたらそれで十分に豊かな体験になるように、本も読んだものの意味や印象を言語化することが本を味わうことではまったくないはずで、ただ「おいしい」と言って読んでいたらそれで十分に豊かな体験になるはずだった。p.590

読書は僕にとって自分自身を理解するためのひとつの道なのだろうか。結果としてそういうことが起きることは(他のなんであれ起きるときは起きるであろうように)あるだろうけれどもそんなに立派なことではない、ただの大好きな趣味であり時間つぶしでありなによりも日常というか日々の基調みたいなものだった。ただ本を読みながら生きているだけだった。p.594

https://www.youtube.com/watch?v=XWIaeQFcbYg

f:id:machidesign:20190429154622j:plain