「軽み」というより単なる「軽薄」なのかもしれない

だいぶ軽くなってきたかなと思うけれど、まだまだだと思う。今の状態は「軽み」というより単なる「軽薄」なのかもしれない。ちょっと軌道修正しなくちゃだ。それにしてもこの鷲田さんの「折々の言葉」には教えられることが多いなぁ。
2016年11月5日の日記より
鷲田さんの折々のことばに時々ひっかかる。今日はこんなのがいいなと思った。昔から、重いなぁとずっと思ってきた。軽くなりたくて仕方なかった。年をとってこのところちょっとだけ手がかりをつかみつつあるように思ってる。

重い人が悟ったときには、ものすごく軽くなる。
高橋睦郎
表現というのは「自分というガリガリしたものを超えて本当に自由になるため」にあると詩人は言う。ここで「重い」とは自分にこだわるということ。松尾芭蕉などはそういう「重くれ」がひとしお強かったからこそ、ただ単に軽い人以上に「軽み」を大事にした。思いもよらない遠くへと連れて行かれるために、あえて自分を不安定な状態に置いた。「俳句」(10月号)から。(鷲田清一
2016年10月14日朝日新聞朝刊折々のことばより