結局いちばんおもしろいのは仕事なのだから

もっともっと仕事のこと考えようよ!結局いちばんおもしろいのは仕事なのだから。

2022年2月17日
建築家になろう
建築を学ぶ学生達へ
建築家は競争相手が多い仕事である。競争相手が多いということは、その分野で出世しても大金を稼ぐことはできない。私の師匠である巨匠リチャードロジャース卿にしたところで、少々普通の人に比べて裕福であるという程度である。建築家で巨大ファンドを築いた人物などいない。どんな有名な建築家であろうとも、日々預金を心配しながらセッセと仕事をしている。もしかすると私の見解は間違っているのかもしれない。しかし私の知っている世界の建築家像はそんなもんである。ヴェニスでしばらくご一緒したピータークック卿Peter Cookも、普通の人と同じようにバポレットという水上バスに乗っていた。カッコよく高価な水上タクシーを運転手付きで飛ばしたりしないのである。我が師匠のリチャードロジャース卿は自転車通勤をしていた。最初は交通違反で捕まって免停になったのが始まりだが、その後も「健康の為に自転車に乗りなさい。」と奥さんに鍵をとりあげられて、雨の日もびしょびしょになりながら自転車で通っていた。私の知っているスーパースター達はそんなもんである。ロックの世界であれば、スーパースターはランボルギーニフェラーリのようなスーパーカーに乗っているか、運転手付きのロールスロイスベントレーに類するリムジンの後部座席に座っている。お金のある建築家もいるが、その人はたいてい建築設計で財を成したわけではない。建築設計はたいして儲からない職業なのだ。なぜそれなのに皆建築家になりたいのだろう。なぜ建築学科の偏差値は高いのだろう。それは人という動物がお金だけの為に生きているわけではないからなのである。建築家はこの上なく幸せな職業であるからなのだ。たいして稼げはしないが、人並みの生活はできる。頑張ればそこそこのお金は稼げる。繰り返すが決して大金持ちにはなれない。
似たような職能にシェフというものがある。勉強の為に我々は食べ歩きをする。時には途方もない贅沢をする。そうしないと客のニーズが理解できない。時折素晴らしいシェフや板前達と出会う。学生達はその華やかな経歴を見て、さぞかし優雅な日々を送っていると思う。とんでもない。建築家も大変な職業だと思うがシェフはもっと大変な職業である。私生活というものがない。有名な人ほど無茶な生活をしている。夜中12時まで働き朝4時起床。奈良井宿のシェフ友森 隆司は毎朝夜明けに野山を歩き回って山菜を1人で摘んでいる。等々力の會の大将は毎朝4時起きで自分で仕入れに出かける。どうして体を壊さないのか不思議である。しかし辞めない。
競争相手の多い職能は概して古い。建築家やシェフという職能は人間そのものの存在と同じ歴史を持っている。古いから競争相手が多い。逆にいえばこれからも存在し続ける職能である。その意味するところは、古い職能は人の生活に不可欠な存在であったし、これからもあり続けるということを意味している。人工知能がいかに発達しようと、そういう職能は無くならない。なぜなくならないかと言えば、人と幸せをシェアするということが目的だからである。ここでは敢えて建築家あるいはシェフという称号を使っている。実はこういう称号は公に存在しない。この称号を使っている人たちは、人の生殺与奪を超えて余計なことをする。栄養をとったり風雨を凌いだりという機能だけでは、この職能の人たちがなぜ努力するのかということを理解することはできない。しかし人はこの余計という部分がないと生きていけない。言い換えれば余計なことをするから人間が人間であると言って良い。余計なことがないと人間は幸せになれないのだ。シェフにとってはお客さんの笑顔が最大の報酬なのだ。
歴史が古い仕事であるということは、人類の存在そのものに関わる大切な仕事だということなのだ。必要な仕事なのだ。だから良い仕事をすれば必ず誰かが幸せになる。誰かが幸せなる分だけ自分も幸せになる。目先のお金を稼ぐだけの仕事ではそれが起きない。
最近建築学科を出た優秀な学生が、少々給料が高いからということで、建築設計以外の職業を選ぶ事例が多い。しかし、一歩踏みとどまって考えて欲しい。建築家は頑張れば必ず良いことがある職業だから。
(乱文ですが若き建築家を育てたい方々はシェアして頂けると幸いです。最近ホントに優秀な若者達が次々と道を外れてしまうのが残念で。
手塚貴晴
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