何かそういう衰弱していく時のゆったりしたというか

「雨の日はソファで散歩」10年以上も本箱の隅に眠っていて最近ようやく掘り出されて、まさに今読まれるべき時に出てきてくれた。そう言えば最近は隠居暮らしという言葉は聞かなくなって定年退職なんていう身も蓋もない言葉になったけれど、やっぱり隠居でなきゃだ。ところでこの中で白眉は谷崎潤一郎さんの「まだ人々が《愚》という尊い徳を持っていた」という言葉。誰も彼もが賢くなってしまって、そして失ったのが徳だった。 
テレビを家の中に置かず、名刺を持たないとどういうことになるか。テレビ番組が話題になる大抵の席で口を聞かなくて済むし、人に会っても名刺を渡さないからすぐに忘れてもらえる。この情報過多時代にその人の身の回りだけがひっそり閑になり、都会の真ん中に住んでいて、世捨て人になれる。深山幽谷にいるから隠者ではない。身の回りの一つ二つのものを捨てれば、かなりの程度世を捨てられるし、世から捨てられるのである。池内紀さんの近著「遊園地の木馬」を覗くと、それを実践している池内さんがいて、感服した。p.42 
子供の目で見た素白の品川宿は、谷崎潤一郎のいわゆる「まだ人々が《愚》という尊い徳を持っていた」時代の美しい絵巻物の世界である。p.109 
隠居暮らしというのは要するに、ショーペンハウエルの「意思と表象としての世界」ふうに言えば、意志がぜんぜん無いわけです。現実とどう絡むとか、これで出世しようとか銭儲けしようとか、そんな人間の欲望の意志というものをまったく欠いた状態で、つまり表象の上だけで生きている。イメージだけで生きているわけですね。p.206 
それに、話しているのは思い出だ。現場の報告じゃなくて、全部意思を抜き取って、表彰だけにして書いているプルースト的な世界だから、読んでいて、すごく色が綺麗だなとか、音がいいなとかいう、印象派の絵を見たり、ドビュッシーの音楽を聴いているみたいな、われわれの世界で言えば流しの新内か何かを雨垂れの音と一緒に聴いているみたいな、


、駘蕩とした世界ですよ。p.219