目はどんどん腐っていってしまう

ようやく猛烈な夏の日々も後退して、セミの声も元気が無くなって、太陽の光も容赦ないというほどではなくなってきた。そうか日常の平穏に戻りつつあるなと気がついたのはまた落ち着いて「折々の言葉から」を読むようになってきていると気がついたからだ。これは8月17日号だけれど、これを読んで思い出した言葉に「あなたの手を信じなさい」というのがある。これは「あなたの目を信じなさい」とも言い換えることができる。どちらも心だの頭だのをあんまり信じすぎちゃいけないよ、もっともっと手や目を信じなきゃということだ思うけれど、僕たちはこのことを忘れがちになる。手を信じたらもっともっと自由になれるし、目を信じたらもっともっと美しいものを見つけ出すことができるようになる。頭を通じて物を見るから目は疲れてしまうし、目が疲れると目は腐っていってしまう。そうすると世界はつまらないものばかりで溢れるようになってしまうし、目はまたどんどんどん腐っていってしまう。
眼玉(めだま)で見た物を、何故眼玉で受止められないのでしょう。
青山二郎
 眼で見たものをすぐに頭で判断したりすれば、眼は物が通過するだけの道具に成り下がる。人には生来、観念を介さずとも「黙って坐(すわ)ればピタリと当てる」眼が備わっていると、骨董蒐集(こっとうしゅうしゅう)で有名な装丁家・評論家は言う。達人ならではの言葉に聞こえるが、普段のありふれた生活にあっても、家族の眼をはじめ、私には見えていない私を射抜く眼がいっぱい。評論「眼の引越し」から。 (鷲田清一
2018年8月17日朝日新聞朝刊 折々の言葉から