久しぶりの休みだ
何週間ぶりだろう
色んな本を交互にちょっとづつ読んで
疲れたら新聞の切り抜きをして
それにも疲れたらかりんとうをつまみ食いして
お茶を煎れて
また,読んで,切り抜いて,CDをまわして
CDをまわすなんてことも久しぶりで
いつもは,ラジオ局が選んだ曲を聞き流しているだけなんて
今日はそうじゃなくて
これを聴きたいって,久しぶりに「主体性」なんて言葉を持ち出して
でもそれがやっぱり,『ケルン・コンサート』だなんて,ちっとも進化していないけれど
でもこれが流れはじめると、休みだなぁ,自由だぞ,予定はないぞ,好きにしていいんだぞと思うから
自然に腰が浮いて、動いている
これを聴いているとやっぱりたまたま映画監督なんて言うとこの人しかしらないナンニ・モレッティーと言う人を思い出して
スクーターでローマのまちをぶらりんこぶらりんこと回っている風景も浮かんで来る
こんな風にしていると休みと言うものが,どれほど大切なものか分かって来る
というか,一人で静かにしていると言うことが
きのうは,有元さんに行ったんだけれど,38歳で死んでしまった有元さんがどうしてフレスコが好きだったのかと言うことが書いてあって
10年以上前にあった展覧会の時には,ひょっとして好きな人かもしれないといった感じだったけれど,10年ほどの間、時々,有元さんの絵の絵葉書を見ているうちに、いつかもう少しこの人のことを知りたいと思っていた
『なぜひとりなのか。簡単に言えば、関係が出てくるからです。」
「関係というのはその「場」とそこに居る人とのものだけでいいんじゃないか。居る者同士の関係はもういらないという気がします。』
なんて言う言葉があって
有元さんは,一人で画室で座っているのがいいんだなと思って,もうひとりでいなきゃと思った
夏の終わりに、3年ぶりくらいに『ケルン・コンサート』が鳴って、10年ぶりくらいに有元さんを見て、そしてちょびっと、ナンニ・モレッティーも来たりして,ひとりだけれど、4人みたいな午後を過ごしていると、ウォーと大きなため息のようなものがでてきた
そうか,宝ものと言うのは,こんなところにあるんだ