たぶんベッドで上で

「明日世界が終わるとしても 私はリンゴの木を植える」なんだけれど、僕たちの場合はリンゴの木ではなさそうだ。じゃぁ、なんだって考えてみるけれどすぐに思いつかない。ベルサイユの庭師は、定年退職の日にナラの木だったように思う。うちの前にコナラの木があるのだけれど最近いいなと思っている。「明日世界が終わるとしても 私はコナラの木を植える」っていいかもしれない。でも本当かなぁ、たぶんベッドの上で七転八倒しているのだろうなぁ。
2016年12月30日
「明日世界が終わるとしても 私はリンゴの木を植える」を座右の銘のように思っている。マルチン・ルターの言葉だと思って来たが諸説あるらしい。誰の言葉であるにせよ、たくさんの人々の指針になって来たことだけはたしかなようだ。この言葉を主題にしたドキュメンタリー番組がはじまった。昨日は米国に滞在してこの3年間、東日本大震災をきっかけにして考え続けて来たことをひとつの絵に描き続けている池田学さんを紹介していた。よく大きな災害の前にアートなんてなんと無力なのだろうという言うことがいわれる。「そんなことないよ」と我々は余り深く考えずに答えを出す。池田さんはその問いに真正面から格闘してまともに答えようとする。そして3年の日々を経てひとまづの答えに到達する。そんな日々を追ったドキュメンタリーだ。今年のお正月、須賀敦子さんの「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする」と言う言葉に出会って、この一年「靴」のことを考えて来た。まだ年は明けないけれど、来年は改めてこれかなと思った。「明日世界が終わるとしても 私はリンゴの木を植える」番組のはじめにジャン・ジオノの「木を植えた男」のアニメーションが流れたのもうれしかった。