僕はその時の秋澤君の敬礼をいつまでも忘れることができない

奈良、そうそうあんな事もあったなぁ。奈良ってやっぱり特別な場所かもしれない。
「靄が出て、庭が暗くなって来たので、僕たちはようやくそこを立ち去ることになった。門の所までかえると、秋澤君はそこで突然、くるりとうしろに向きかえった。そしてそこに、きちっと足をそろえて立ちどまると、帽子を脱ぎ、体を正して、法隆寺の堂宇に向かって敬虔な礼を送ったのである。真面目なのだ。一分のふざけもない。奈良に来て何を見ても殆ど感動を示さなかった秋澤君が、初めて感極まって、身ぶりいっぱいの敬礼をしたのだ。僕はそばでそれを見ながら可笑しくて仕方がなかった。僕はその時の秋澤君の敬礼をいつまでも忘れることができない。そしてその後もう幾度くりかえしてその時のことを笑い合った事であろう。」p.151
「文と本と旅と」上林暁