「立原道造・風景の建築」岡本紀子著を読んだ。いま立原道造や堀辰雄が好きだというのは、ちょっとはばかれるようなところはあるけれど、今こうして立原道造の、それも建築家としての立原についての本が書かれるようになるとは?もうとっくに特に建築家としての立原など忘れ去られてしまったいるのかと思っていたけれど、が今この時代に語られるとは、どうも時代はにっちもさっちもいかなくなって、風のように越境し創作した立原道造を求めているのだろうか。
立原がもうすこし長く生きていたらなどと、どうしても歴史のifについて考えてしまうのだけれど、詩と建築はもっと近いものにならなかっただろうか。建築と絵画、建築と彫刻については語られることは多いけれど、ル・コルビュジェは絵描きでもあったし、詩と建築はほとんど語られることはなくなってしまったような気がする。建築や風景で本当に大切なのは、見えない風や光やたたずまいのはずなのだから、それらを捕まえるのに詩こそふさわしいと思うのだが。
彼の描いた透視図には絶えず詩的世界が流れている。詩や物語からイメージを得て設計を構想することもあれば、詩の中に建築的風景を描くというように。立原は異なる領域を風のように越境し創作した。立原が描く設計図は不思議な空気をはらみ、建物があたかも非在の風景の中に佇んでいるように見える。p.4
この絵 は いま学校で画いて ゐる製図だよ。模写だけど、僕が描くと この扉の中には 可愛らしい パリの子たちが ゐることになってしまふ。これは、ルネサンス風のフランスのホテルの入り口 だって。きっとその パリ の子たちに混じり フランスの田舎、さう、ドオデのゐた村あたり から スガンさんも 来てる かも知れない、そのせゐか、製図しながら 耳をすますと この窓から、訛の多い 言葉 で 挨拶してゐる声や お料理の味のことを 言ってゐるのがよく聞こえる。p.68
僕は、窓が一つ欲しい。あまり大きくてはいけない、そして外に鎧戸、うちにレースのカーテンを持ってゐなくてはいけない。窓台は大きい方がいいだらう。窓台の上には花などを飾る。花は何でもいい。リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。そしてその窓は大きな湖水に向いて開いてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。p.284