まだまだ鼻垂れ小僧のようなものなんだなぁと

水辺というと池というと環境の時代のせいかビオトープ的価値として見がちなのだけれど、防水工事を経て蘇った五日市・協同村の池はビオトープというより、いきものたちの場所というより、山紫水明的価値として蘇ったものだから、ちょっとそれは想定外であったし、それはまずいなぁと思ったのだけれど、世界はやっぱりビオトープ的にばかりには語れなくて、「 水は方円の器に従う」とか、「上善は水のごとし」とか、孔子さんや老子さんが語る世界としてあってもいいんだなと思って、中国4000年の賢人たちにとってはビオトープエコロジーなんてなものはまだまだ鼻垂れ小僧のようなものなんだなぁと、ちょっと想定外の地平に立ってしまった。

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