最後までとにかく思い切りやるのだという岩崎さん

この日曜日、ことことと常磐線に乗って茨城県の落日荘に行ってきた。岩崎さんのお話を聞いていると、これまであまり深く捉えようとしていなかった言葉が、それは岩崎さんがこつこつと木を削ったり、石を積んだりしながら考え続けられて、そしてそれらの石や木が空間として立ち上がって、そこで夕焼けを眺めたり、ご飯を食べたりしながらまた一つ一つ再確認されてようやく生まれてきた言葉であるから、深く納得してしまった。軸線を揃えるとか、シンメトリーに配置するとか、それらの言葉は設計の教科書にごく普通に出てくる言葉だから理解しているつもりであったけれども、そんな言葉たちに出会って何十年も経ってようやく、軸線を揃えるということはこんなにも場所のちからを呼び覚ますものなのだなぁとか、シンメトリーの空間というのはなんとも安心した心持ちを作るものなのだなぁとか、そんなこと今まできちんと理解していなかった。そして何よりも自分の手で作るということ。10数年前だったか、ヨーロッパの住宅事情を幾つか紹介するテレビ番組があって、どんな著名な建築家が作った住宅よりもコツコツとセルフビルドで家を建てているフランス人家族が作る家がとんでもなく楽しかったことがとても印象に残っていた。だからこれがレヴィ・ストロースのいうブリコラージュということなのだなと思って「野生の思考」に挑戦したのだけれど、難しくってちっとも歯が立たなかったものだから、自分の手で作るということについてあまり深く考えなくなってしまっていたのだけれど、今回八郷盆地を訪れて、岩崎夫妻がこの17年間コツコツと作り続けられているこの落日荘を見て、セルフビルドということやブリコラージュというようなことの持つちからにびっくりしてしまった。僕ももう人生の最終ステージに差し掛かっているから、さまざな老人論や高齢社会論を読んだりするのだけれど、どうも今ひとつ膝を打つようなものに出会えなくて、その多くは静かにフェードアウトしていくように人生を終えようというものであったり、いろいろなものを捨てて身軽になろうよというものが圧倒的に多いのだけれど、岩崎夫妻が挑戦しているのは、多分多くの老人論が目指しそうなワビ・サビの効いた簡素な茶室のような建築ではなくて、伽藍のような堅固な空間であり、一歩家の中に入ると、ご夫妻がこれまで世界中から集めてこられたお気に入りのものたちや、折々に岩崎さん夫妻の頭の中を作り上げてきた蔵書が溢れかえっていて、ものを捨てなさいだの、身軽になりなさいだの、こじんまり生きなさいなどとは対極にある世界があって、落日荘は世の中に流布している老人論を吹き飛ばす勢いを持っているのだった。僕は若い頃「都市住宅」などという建築雑誌を通じて、世界を飛び回っている岩崎さんをちらちらと見ては、かっこいい人だなぁ、颯爽としている人だなぁと密かに憧れていたのだけれど、今ようやく広い世界から戻られて茨城県の小さな盆地に着陸を果たされんとされているのだけれど、でもその着陸風景は優しいソフト・ランディングなんかじゃなくて、とっても激しいハード・ランディングでそれが気持ちいい。年をとるということはとっても難しいことだと思うけれど、最後までとにかく思い切りやるのだという岩崎さんは最後までかっこいい生き方を貫く人なんだなぁと思った。