でも自分を信じなきゃ信じなきゃって繰りかえして

金曜日は週に一度東京を横断する。それに昨日は現場があったから。1日に二つの仕事を済ませたのだから、ちょっとくらい贅沢してもいいだろうと思うから、窓口の青年に「輝ける人生」と「顔たち、ところどころ」のどちらがいいって聞いたら、「輝ける人生」の方が少し見ている人が多いかなっていうから、散々迷って、昨日「 顔たち、ところどころ」 に決めていたのだけれどちょっと揺らいだ、でも自分を信じなきゃ信じなきゃって繰りかえして「顔たち、ところどころ」にした。これが良かった、なんというのかなんともおしゃれで、なんとも自由で、なんとも楽しくて、以下いくつものなんともが続くのだった。アートってなんだろう、芸術ってなんだろうっていう難しい問いに、なんともあっさり、こういうことじゃないのって?答えてくれる映画かな。これはドキュメンタリーなの?ドキュメンタリーって現実を映すのでしょ?現実ってこんなにいいものなの?って思ってしまう映画だからおかしい。だいたいいい映画を見るとまっすぐ帰るのが嫌になってしまうから、それでいつものカフェに行ったら、初めて見るギャルソンがいて、その様があまりに板についているものだから、女性のギャルソンのことはフランス語でなんて言うのなんて訳のわからないことを話しているうちに、彼女に「顔たち、ところどころ」のチラシを一枚渡してぜひ見て、明日までだけれどぜひ見に行ってと言った。というのはこの映画はみんなを楽しくしてくれる映画だけれど特に女性に見て欲しいと思っていたから。世界の女性たちよ、たちあがれっ!ていう映画だから。そうこうしているうちに顔見知りのがギャルソンが現れたから、その頃はすっかりワインの酔いも回っていたせいもあって、あの新人ギャルソンのこと、ちゃんと育ててあげてねと言って別れた。ところで女性のギャルソンのことなんていうの?と思って調べたら、セルヴーズというらしいことがわかった。でも、なんとなく語呂としてはギャルソンヌの方がいいなと思うのでまた調べたらギャルソンヌ「男みたいな(自由奔放な)娘」とちょっと意味が違うらしい。でも僕にはギャルソンヌの方がいい。
その結末にあっけにとられ、立ち上がってくるのは、人生の一回性、すべての時間への愛おしさだ。戻らない、失われる。だからこそ、各々の瞬間を、人との出会いを、自分自身を大切にし、誇り、他人のそれにもまた敬意を持たなくては。甘哀しいギターが響くエンディング、胸がいっぱいになる。(ふつうの人々のあたりまえの誇り・町山広美 顔たち、ところどころパンフレットより)
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