ささやかながらもこのような生が

いつのまにか朝日新聞の連載の中でも佐伯啓思さんの(異論のススメ)が楽しみになっている。今朝は映画「人生フルーツ」について。津端さんの偉かったところは、思い通りにならなかったあのニュータウンの計画に参加したプランナーとして留まり続け、決して投げ出さなかっことかなって改めて思った。
先日、「人生フルーツ」というドキュメンタリー映画をみた。東京では盛況と聞いていたが、遅れて上映された京都のミニシアターも満員であった。
 日本住宅公団で戦後日本の団地開発を手掛けた建築家、津端修一さんとその妻英子さんの日常生活の記録である。1960年代の高度成長時代に、津端さんは次々と日本のニュータウンを手掛けた。そのひとつが愛知県の高蔵寺ニュータウンであるが、自然との共生をめざした彼の計画は受け入れられなかった。
 そこで彼は、このニュータウンの一角に土地を購入し、小さな雑木林を作り、畑と果樹園を作り、毎日の食事は基本的に自給自足するという生活を送ってきた。畑では70種類の野菜、果樹園では50種類の果物を育てているという。映画は90歳になった修一さんと3歳年下の英子さんの日常を淡々と描いているのだが、しみじみとした感慨を与えてくれる。
 たいていの建築家は、ニュータウン団地の設計を手掛けてもそこには住まない。大都市からやってきて仕事を済ませるとそれで終わりである。津端さんは、思い通りにならなかった愛知のニュータウンに住み、小さいながらもその土地に根を張り、そこで自然の息吹を聞こうとする。風が通り、鳥がやってくる。四季がめぐる。時には台風が襲いかかる。そのすべてが循環しながら土地をはぐくみ草花や野菜を育て、この老夫婦の生活を支えている。いや、この夫婦の生活そのものも、この生命の循環のなかにあるように見える。
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 かつては、日本のあちこちにこういう場所がごく自然に存在していた。60年代でもまだ、都市の郊外や地方をゆけば、人々は自然の循環のなかで野菜をつくり、半ば自給しながら生活していた。その後、60年代から70年代にかけての高度成長は終息し、80年代のバブル経済も崩壊した。にもかかわらず、四季の移ろいや自然の息吹とともに生きることは今日たいへんに難しくなっている。
 この映画を見ていると、自給的生活はかなり忙しいことがよくわかる。労力がいるのである。自給といってもコメや肉まで手にはいるわけではない。90歳の津端さんは自転車に乗って買いだしに出る。畑や家の手入れもたいへんだ。毎日同じことを繰り返すにも労力がいる。できることは自分たちでやるという独力自立の生活は、映画館でこれを見ているわれわれに与えるすがすがしさからは想像できないエネルギーを必要とするのであろう。
 90年代になって日本はほとんどゼロ成長に近い状態になっている。にもかかわらず、われわれは、あいかわらず、より便利な生活を求め、より多くの富を求め、休日ともなればより遠くまで遊びに行かなければ満足できない。政府も、AIやロボットによって、人間の労力をコンピューターや機械に置き換えようとする。住宅もITなどと結びつけられて生活環境そのものが自動化されつつある。外国からは観光客を呼び込み、国内では消費需要の拡張に腐心している。それもこれも、経済成長のためであり、それはグローバル競争に勝つためだというのだ。
 日本がグローバルな競争にさらされていることは私も理解しているつもりではあるが、そのために自然や四季の移ろいを肌で感じ、地域に根を下ろし、便利な機械や便利なシステムにできるだけ依存しない自立的生活が困難になってゆくのは、われわれの生活や経済のあり方としても本末転倒であろう。
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 この5月末に私は『経済成長主義への訣別(けつべつ)』という本を出版した。私は、必ずしも経済成長を否定する「反成長論者」ではない。また、いわゆる環境主義者というわけでもない。しかし、これだけモノも資本も有り余っている今日の日本において、グローバル競争に勝つためにどうしても経済成長を、という「成長第一主義」の価値観には容易にはくみすることはできない。現実に経済成長が可能かどうかというより、問題は価値観なのである。経済成長によって、「より便利に、より豊かに」の追求を第一義にしてきた戦後日本の価値観を疑いたいのである。それよりもまず、われわれはどういう生を送り死を迎えるか、それを少し自問してみたいのである。
 実は、東海テレビが「人生フルーツ」を製作中に急に津端さんが亡くなる。その直前まで元気にいつもと同じ生活をしており、実に静かで自然な死であったようだ。
 こういう死を迎えることは今日なかなか難しい。われわれはグルメ情報を片手にうまいものの食べ歩きに精を出し、旅情報をもとに秘境まででかけ、株式市場の動向に一喜一憂し、医療情報や健康食品にやたら関心をもち、そしてそのあげくに、病院のベッドに縛り付けられて最後を迎えることになる。こうした今日のわれわれの標準的な生と死は本当に幸せなものなのだろうか、と誰しもが思うだろう。
 確かに、より多くの快楽を得たい、より便利に生活したいというのは、現代人の本性のようになっている。経済成長もわれわれの生活に組み込まれている。しかし、この映画はまた、その気になれば、このグローバル競争の時代に、都市のニュータウンの真ん中で、ささやかながらもこのような生が可能なことをも示している。経済成長を否定する必要はないが、そのかたわらで、脱成長主義の生を部分的であれ、採り入れることはできるはずであろう。
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 さえきけいし 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「反・幸福論」など
2017年6月2日朝日新聞朝刊(異論のススメ)「人生フルーツ」と経済成長 脱成長主義を生きるには 佐伯啓思 から