信じ続けることってどれだけ大変だったろう。

この間お世話になった石見銀山 他郷阿部家の大河内瑞さんからこんな嬉しいニュースが届いた。

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この夫婦の背中から受け取るものを
私達はどんな風に紡いでいこう
逆行小船の30年
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つい先日、3日間に渡って、私の住む大森町で、
ユネスコの国際会議が行われた。
“持続可能な発展のための教育”を考える専門家会議。
阿部家や群言堂もその舞台として使って頂いた。
ユネスコ” ”国際会議” という単語が雲の上過ぎて、
始まっても全くピンときていなかったのが正直なところ。
むしろどちらかというと、
これはさすがにぜんっぜん身の丈に合っていないと思い、
遠巻きに見ようとしていた自分もいる。
だけど。
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そもそものきっかけは、
阿部家に泊まられたユネスコの幹部の女性が、
阿部家の空気、大森の空気、人の空気、
登美さんと腹を割って話したこと、
そのすべてに深く感動されて、
日本の、へき地の、島根県石見銀山で、
記念すべき第一回目の会議を開くことを、
周囲の反対を押し切って勧めて下さったという。
場所が場所なので、
70時間かけてここまで来たという方もいらっしゃった。
すんごい偉い人達の集まりらしいんだけど、
食事は阿部家の台所で、小学校の椅子に座って。
最終日はおくどさんで炊いたごはんをおむすびにして。
この家にいれば、あの台所で一緒にごはんを食べれば、
もう偉いとかすごいとか関係なくなって、
ひとりの人間になる。今回もやっぱりそうだった。
各国の頭脳というべき方々が、
阿部家の台所でわいわいと食事する姿を、
大吉さんは静かに一歩引いて見ていた。
登美さんはちょっと困ってるようにも見えた。
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30年前、この町に帰ってきた大吉さん。
傍らには学生結婚した年上女房の登美さんがいた。
もう子どももいた。
年上で、子持ちで帰ってきた。そんな嫁。
登美さんは矢面に立っていた。
大吉さんが過疎のどん底のこの町で、
ビジネスを始めることを、人は奇人変人と言った。
でも、夫婦はこの町の暮らしに誇りを持っていた。
この町から発信することがどれだけ価値のあることか、
嗅覚で感じ取っていた。
「私達はこの町が大好きだ!」と、
叫びながら練り歩いたこともあるんだそうだ。
そのひとつの実証として、30年間、店舗数が増えても、
ずっと本社は石見銀山から動いていない。
利便性より、哲学を優先してきた証。
ヒトに笑われても、バカにされても、
30年間撒き続けてきた、希望の種。
信じ続けることってどれだけ大変だったろう。
どうやって動き続けてきたんだろう。
本当にわけのわからないくらいのエネルギー。
そのエネルギーに呼応して、
呼び寄せられる人。
遅れてついてきた時代。
30年、夫婦はそうやって生きてきた。
”逆行小船”という生き方。
全身で逆風を受けて。
全力で風に乗って。
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最後にひとこと、言葉を求められた登美さん。
涙で言葉にならなかった。
「こんな会議がこの町で行われるなんて、
30年前は想像もしていませんでした。」
ようやく絞り出した言葉。
その姿に、大吉さんも泣いていた。
会長の涙に、私達も泣いた。
さすがに泣けた。
「泣いてばかりもいられない、
次の目標が出来ました」
と最後に会長が言った。
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30年。
夫婦の物語は今、どこらへん?
私達はどこらへんに現れた登場人物なんだろう。
どんな役割を担うんだろう。
この先どんな人とどんな物語を紡いでいくんだろう。
30年後が見える人なんていない。
いろ〜〜〜〜〜〜んなことがあるんだろうな。
楽しみなんだ、本当に。
そう思えることが本当にうれしい。
ある夫婦の物語。
けれど、もう私達の物語。