じたばたしないでいるということ

110721

うれしいにつけ、悲しいにつけひとり宴会、多摩センター駅前のサイゼリア
それで、今日は、うれしいにつけの番

今日のメニューはキリン一番搾り、冷たいパンプキンスープ、半熟卵のシェフサラダ、しめて907円、1000円で、93円のおつりが来る、そこがうれしい

かかる音楽はジジオラ・チンクエッティー『頬にかかる涙』

午後はスケッチ教室の最終回、いったいどうするつもりって、このところの悩みのたね

で、きょうも不安のままにスタート

でも、みんないい絵なのだ、素直なのだ、邪心がないのだ、それぞれがそれぞれそのまま世界、合評会、順番最後に見せる自分のスケッチのつまらないこと、あざといこと

最終回だから、みんなでお茶とクッキーをいただいた
わかったことは、みんなものすごく喜んでいてくれていたこと
楽しかったそうだ
秋にもこようと思っていた、と言ってくれるひともいた
でも、やらないことに決めていた
教えるなどという立場に身を置いてから、ちっとも描くことが楽しくなくなっていた、どんどんどんどんつまらない絵になっていた、だからこれでお金をいただくなんて、と

でも最後の合評会、みんなの描く絵が、毎回毎回とても楽しくなっていることに、おどろいた、それぞれがそれぞれの世界を力いっぱい遊んでいた

教えるという仕事、こういうことなのかもしれない。自分が楽しくなるよりも、あとに続く人たちが楽しくなってくれること、幸福になってくれること、そんなことができれば大成功ではないか

でも、そろそろ自分も楽しくなりたい

なかでも、自由な絵を描く人だなぁと思っていたiさん
僕の話したことが、とてもヒントになったと言ってくれた、細大もらさずメモを取ってくれていた

うれしいような、悲しいような、スケッチに遊ぶひとから、教えるひとになってしまった

年をとるということはそう言うことかもしれない、つまらないことなのかもしれない

十勝サーカスの雨の中でも、ずっと楽しそうに描き続けていたmさんの本が昨日届いた

ぱらぱらとめくっていたら、mさんの恩師、吉阪隆正さんの言葉が載っていた
『 僕は若い人を教えているから、じたばたしないでいることができる』同時代の建築家、丹下健三さんが華々しく時代の光を浴びているときだ

どう解釈すればいいのだろう?

でも今まで、少し斜に構えていた教えるということに、立ち向かおうという気構えができたような気がする

『教えるということは、じたばたしないでいるということ』
わかるような気がする、結局は伝えるということからしか、なにも動かないのかもしれない

十勝サーカス以降、人生の立て直しをはかっている
旅っていい、北海道っていい、音更っていい、十勝サーカスっていい

久しぶりに大地の上に生きた!

書き終えたあと、サイゼリアの窓から、くすのきの並木を見た、描きたくなった
前にそんな風に思って数年がたつだろう
ようやく、またすこし描くのが楽しくなった


スケッチの教室のあと、もう一つ、良薬に気がいた
本棚から気に入りのスケッチ集を眺めながら、眠りに落ちること、スケッチ集の続きの淡い水彩画のような夢の続きが見れるような気がする